櫻華楼
 一章  中原 陵成
 二章  斉藤 彩
 三章  山崎 あやめ

 看板写真 (肖像画)

 あやめの間(掲示板)

 おまけ

-提携店-

絶対運命無敵華激団
太正湯
当世懐古街
遊戯室
Belgard

「橘乃!おまえって子は!」
 土蜘蛛の、焦れたような怒声が、荒々しい足音とともに廊下の向こうから近づいてきた。
「橘乃!」
 がら、と荒々しく襖があけられ、先ほど布団を片づけに行ったレニの耳を爪をたてて引っぱりながら、土蜘蛛が仁王立った。
「あの布団はなんだい?ええっ?昨日泊まりの花代をもらっておきながら、なんで布団が二組敷いてあったんだい!?」
「ねえさん、ごめんなさ…」
 かすれた声で謝るレニを、床に突き放すようにして、土蜘蛛がずかずかと部屋に上がり込んだ。
 マリアは蒼ざめて、床に頭をすりつけた。
「申し訳ございません…」
「少しばかり客がついてるからって、いい気になるんじゃないよ!何様のつもりだい!?」
 無造作に、マリアの前髪をつかんで顔を上げさせると、土蜘蛛は部屋の外までひびくような声で怒鳴りつけた。
「おまえみたいに振る舞いの悪い子は、ほっとくわけにはいかないよ。身の程を教えてやらないと他の子たちに示しがつかないからね!」
 マリアの襟首をとらえて引き立てながら、床に呆然と座り込んでいるレニに向かって言い放った。
「レニ、おまえは今日は食事抜きだよ!明日に水揚げを控えた大事な身だからそれで勘弁してやるけど、こんど妙なかばい立てをするようだったら、おまえも容赦しないからね!」
 土蜘蛛の言葉に、マリアははっとした。
「で、でも…!あの子は、まだ誕生日まで、三月も…」
「うちにはもったいないほどの大旦那が目を付けてくださったんだよ。ちょっとばかり早いったって構うものかね」
「そんな…」
「人のことより、自分の身の心配でもおし!さっさと来るんだよ!レニは女将さんのとこへお行き!呉服屋さんが来てるからね」

 櫻華楼では、稼ぎが悪かったり、稼業に身を入れない遊女への仕置きは、すべてこの土蜘蛛に任されていた。遊女たちの直接の管理者であるその彼女に、マリアは何かと目の敵にされ、あら探しをされては、しばしば折檻を受けていた。
 朋輩たちのためには、自由になる乏しい金品を惜しまずに分け与えてやりながら、彼女には余分な付け届けをするでなく、媚びるような態度をいっさいとらないマリアは、土蜘蛛にとって小面憎い、気にくわない存在だった。

 無駄と知ってさしたる抵抗もしないマリアを中庭に引きずっていくと、土蜘蛛は縁側から乱暴に放り出した。
 しごき帯を引き抜いてマリアの手を後ろ手に縛り上げ、ひざまずかせると、おもむろに緋の襦袢の上半身を引き剥いた。
「そのたるんだ性根を叩き直してやるよ!覚悟おし!」
 土蜘蛛が、ぎらぎらと眼をくるめかせながら、青竹の先を裂いたものを振り上げ、やわらかな背中に力いっぱい打ち下ろした。
「く…!」
 マリアの喉の奥でうめき声が漏れた。二度、三度と打たれるうちに、白い肌はみるみる無惨に腫れあがり、皮膚の表面が裂けて、血が滲んできた。
 いっそ、泣き叫び許しを乞うたほうが、いくらかでも土蜘蛛の気が晴れたやもしれない。だが、階上の欄干から、この見せしめを朋輩たちがこわごわと眺めているであろうことを思い、マリアは歯を食いしばって声をこらえた。何より、我が身の痛みよりも、今女将の部屋で、水揚げの日のための衣装を合わせられているレニのことを思うほうが、マリアの胸は苛まれた。
 土蜘蛛は、まるで、抜けるようなマリアの白い肌を憎んででもいるかのように、浅黒い顔に怒気をはらませ、激しく打擲を続けた。痛みの余りマリアが気を失うと、乱暴に髪をつかんで中庭の池にマリアの頭をつけ込んだ。
 生臭い水がいきなり口の中に入ってきて、マリアは意識を取り戻し、身をよじってもがいた。ようやく引き上げられたものの、激しく噎せ込んでいるところをさらに打ち据えられて、抑えきれずに悲鳴が漏れた。
「強情ばかり張って、馬鹿な子だよ!かわいげのあるところのひとつも見せればいいものを」
吐き捨てるように言って、土蜘蛛が最後にひときわ強く打ちつけた。

「…今夜の勤めにさわるからね、このくらいで勘弁してやるよ。だけど、今度こんな真似をしたら、ただじゃ済まないから、そう思っておきな!」
 打ち疲れ、息を切らせながら、土蜘蛛がマリアを引き起こした。白い背中に鮮血を滲ませ、濡れた髪を額に張り付かせて、蒼白な顔でぐったりしているマリアを、屋内へと追い立てる。
「さあ、さっさと支度をおし!もっと身を入れてお客の相手をするんだよ!」

 土蜘蛛を恐れた朋輩たちの、誰一人手助けするもののないまま、マリアは這うように風呂場に向かい、背中に水の染みる激痛をこらえて、池の水に濡れた髪を洗った。  食事をとる気力もなく、布団にうつぶせて、灼けるような痛みに朦朧としながらも、水揚げされるレニのことがマリアの頭から離れなかった。
 自分のときに、あまりの嫌悪感と羞恥に動転して逃げだそうとしたこと、遣り手にきびしく叱責され引きずり戻されたこと、死なずにいられる自分が不思議だったことなどが、昨日のことのように鮮明に思い出された。柱にとりすがった白い指を、一本ずつ無慈悲に引き剥がされ、泣きながら引き立てられていった幼い朋輩たちの様が、レニの姿と重なり、おぼろげな意識の中にうなされるように浮かんでは消えた。

 夢うつつに、誰かが背中の傷に触れているのを感じた。なにか、塗り薬をつけてくれているようだった。
 おそるおそる触れるような、か細い力と、背に降りしたたる悲しげな視線。菊之丞か、それともレニだろうか。
 身動きもできずまどろんでいるマリアには、それを確かめる力もなかった。


 レニは、からになった塗薬の容器を、見つからないように懐の奥深く仕舞った。
 下働きの身で、自由になる金銭を持たないレニが、「水揚げ代から払うから」と頼み込んだのを、菊之丞が代金はいらないからと渡してくれたものだった。
 肉親の記憶を持たないレニにとって、「母のような」「姉のような」というたとえは、意味をなさなかった。だが、自分に向けられるマリアのあたたかいまなざしが、さしのべられるやさしい手が、レニにはかけがえのない大切なものだった。何より、この、女が商品という名のもとに人でなく、またそれを酷薄に売りさばく人でない者たちに囲まれた世界で、やさしさ、気高さを失わないマリアは、ただ一人の「人」に見えた。
「レニ!どこにいったんだい?また橘乃のところじゃないだろうね!」
自分を探す土蜘蛛の声に、レニはあわてて屏風の影に飛び込んだ。間一髪で襖が開き、舌打ちの音とともに閉められた。
 レニはため息をつきながら、もう一度痛ましげにマリアを見やると、廊下の様子を見計らいながら、そっと部屋を出ていった。


「橘乃、ご指名だよ!いつまで寝てるんだい」
 土蜘蛛の乱暴な声に、マリアは背中の痛みに呻きながらそろそろと体を起こした。すでに夕刻を迎え、櫻華楼は、登楼する客を迎えていつもの賑わいを見せ始めていた。
 この傷に耐えて客をとらなければならないのかと、マリアは暗澹たる思いでどうにか身支度をした。指定された部屋に向かい、襖を開けた途端に、真っ白な海軍の制服が眼に飛び込んできた。

「さっそくでなんだけど…来たよ。橘乃さん」
「大神様…」
 少し照れくさそうに微笑む大神に、マリアは深々と頭を下げた。
「今朝がたは、どうも…」
「そのことはもういいよ」
 大神が、マリアに近寄って手を伸ばし、前髪を掻き上げるようにして額に手を当てた。
「よかった。熱はもう大丈夫みたいだね」
 その仕草が、あまりに自然で、かつ、接し慣れないものだったので、マリアは思わず、一瞬どぎまぎしてしまった。
「…でも、まだ少し顔色が悪いみたいだ…」
 心配そうな大神に、マリアはあわてて笑顔を作って見せた。
「灯りのせいですよ。もう、なんともありません。…私のようなものにお心遣いをくださって、ありがとうございます、大神様…」

 今宵のマリアは、髪の金色と調和した淡い萌葱色に白い橘を散らした着物を装い、襟元からのぞいた緋縮緬の襦袢が、縁取るように肌の白さを際だたせていた。黒い帯の上からも、その腰が驚くほど細いのが見て取れ、大神の眼に、マリアの姿はどこかはかなげな印象を与えた。
「…迷惑じゃなかったかな」
 マリアの所作にわずかな不自然さを感じ取った大神は、頭の中にあった言葉を飲み込んだ。
(今日は、ずっと君の事が頭からはなれなくて…)
(早く、もう一度君に会いたかった…)
「とんでもない。さあ、着替えておくつろぎになってくださいませ」
 マリアは笑顔で答え、客用の浴衣を着せかけようとした。
 だが、取り落とした帯を拾おうと身を屈めたマリアが、一瞬、顔をしかめたのを、大神はめざとく、見逃さなかった。
「どうかしたのかい?」
「いえ、何も…」
 取り繕おうとするマリアの背に、案じた大神の手が触れると、マリアは再び眉を寄せて身をすくめた。
「ちょっとごめん」
 大神は咄嗟にマリアの襟元を広げ、背中をのぞき込んだ。その眼が、驚愕に大きく見開かれる。
「この傷は?誰がこんなひどいことを…!」
 あわてて身を離したマリアに言いかけて、大神が、さっと表情をこわばらせた。
「まさか、俺のせいなのか…?」
「い、いいえ、違います。決して大神様のせいではありません。私が、ちょっと他に粗相を…その…」
 マリアの狼狽ぶりが、何より真実を物語っていた。
「俺が、君を抱かなかったからか…?」
 そこまで言われて、マリアは咄嗟に躱す言葉がでなかった。
「なんてことだ…」
 大神が、片手で顔を覆って呻いた。
「どうやって君に詫びればいいんだ」
「…抱いてください、大神様。そのためにいらしてくださったんでしょう?」
 大神の手を取り、胸元に導きながら、マリアは帯を解いた。着物の前をゆるめながら、誰に、何度抱かれても、いつも決して消えることのない、この最初の瞬間の羞恥を、喉の奥で噛み殺す。
「こんな体でお相手するのは、大神様には申し訳ないのですが…」
 そのまま大神の手を抱き込むようにして、床に誘った。大神は、マリアの深い碧の瞳に魅入られたようになって、誘われるままに膝をつき、マリアの体に手をかけた。

 白いなめらかな頬を抱き、口づけようとした大神の唇を、つい、と顔を反らせてマリアが避けた。
「唇への接吻は、お許しください、大神様…」
「え…?なぜだい?」
 いぶかしげな大神の顔に、マリアが少しすまなそうに微笑んで見せた。
「ここは、一夜の夢を買って粋に遊んでいただく所…。つかの間の恋に、本気にならないようにするためですよ」
 歌うように囁く、紅をひいたやわらかな花のようなその唇に、大神はどんなにか口づけたかった。だが、どことなく寂しげな微笑みを見ると、何も言えなくなり、そのままそっと耳元に口づけた。


 仰臥したマリアの体を、ほの暗い灯りが、黄昏の中で見るように、やわらかな翳りをつけて照らし出した。
 高く盛り上がったゆたかな胸の隆起と、浮いた腰骨に囲まれたなだらかな腹部の広がり。この白いやさしい大地のような体を、日毎夜毎、幾人もの男たちがいやしい欲望のままに踏み荒らしていくのかと思うと、大神は怒りに似た思いがこみあげ、頭の芯が灼けるようだった。
 包み隠すことなく目の前に横たえられた裸体は、吸い込まれるような魅力を放ちながら、どこか静謐な感じすらした。昨夜出会ったばかりでありながら、マリアにはなにか凛とした品位が感じられ、とてもこのような境遇に身を置くものには似つかわしくなかった。唇をむすび、眼を閉じて自分を待つマリアを見下ろしながら、大神には、彼女が、羽衣を奪われて汚猥の中に堕とされた、囚われの天女のように思えた。
 まぶしげに眼を細め、白い胸元に、あがめるように唇で触れた。双の乳房の間に顔を埋め、かぐわしい匂いとともにやわらかな感触に包まれると、大神は、ふいに泣き出したいような思いにとらわれ、思わず顔を歪めた。マリアの背の傷を思い、必死でおのれを保ちながら、押し頂くように手をあてた胸の、眼のくらむような感覚に、ともすれば我を忘れてしまいそうだった。


 マリアは、男が、どんなふうに思い人を抱くのか知らない。金で買った女を自由にするのではなく、愛する女をどんなふうにいつくしむのか、知らない。
 払った金のもとを取ろうとするように、がつがつと抱きつき、力任せに組み敷いて体をこじ開ける、そんな男たちを一夜に幾人も相手にしていると、最後の方には、疲れ切って、笑顔をつくるのもつらくなってくる。
 弄りまわされてひりひりする胸をさらに捏ねまわされ、少しでも痛み以外のものを感じようと、息を吐き、目を瞑り、ただひたすらにじっと朝の訪れを待ち望む。そんな遊女の体を思いやってくれる男など、限られたわずかな時間で少しでも多くの享楽を貪ろうとする客の中には、一人としていなかった。
 だが、今大神の腕の中で感じているのは、マリアがこの苦界で初めて触れる、男から女へのいたわりの思いだった。愛されて男に抱かれるというのはきっとこんなふうではないかと思った。

 酔ったような熱いまなざしで見つめ、賛美の思いを込めて肌に触れながら、大神はマリアの背の傷に障らないように、最大限の注意をはらった。決してマリアに無理を強いず、マリアが受け入れられるようになるまで、辛抱強く、やさしい愛撫をほどこした。
 そのままでは、布団の表面に擦れて痛むであろう背の傷を思い、大神はそっとマリアの体を抱き起こし、背中に触れないように、肩と腰に手を回して、膝の上に抱いた。
「俺にもたれていいから、楽にして…」
 うなじに顔を埋め、髪を撫でながら、これで、本当にこの人は満足できるのだろうかといぶかしむほど、もどかしいほどにやさしく揺りあげた。

 様々な客の中には、マリアが、悦び乱れるさまを見ようとやっきになる野暮な男もいた。だが、薄い襖ごしに聞こえる朋輩たちのわざとらしい嬌声を真似て、ため息をつき、声を震わせてみせながら、マリアはそんな客の腕の中でも、一度も本心から快楽を得たことはなかった。
 今も、大神の肩に頭を預け、広い背中と、固い髪に触れながら、決して体に悦びを感じているわけではなかった。だが、マリアは今初めて、肌に触れる男の体の温もりを、心地よいと思っていた。
 大神とひとつにつながって、穏やかな波の中をたゆたいながら、なにか、熱い湯に身を浸したような、せつないような思いが胸の中に満ちてきた。自分は今、商品ではなく、一人の女として抱かれている。そう思うと、呆然として、涙が出そうになった。
 うれしいのではなかった。ただ、哀しかった。知らなければ良かった、とすら思った。
 迷惑な客だ、と大神を恨みたくなった。同時に、ずっとこうしていたいとも思った。かなしい昨日も、つらい明日もなく、このままゆるやかに時が止まってしまえば…。
 だが、大神はマリアをきつく抱きしめると、最後に熱い息を胸元に吐き、そっと力をゆるめた。


「こんな目に、よくあうのかい…?」
 大神が、うつぶせて寄り添うマリアの背の傷に、羽で触れるようにそっと口づけた。
「…ちょっと、間が悪かっただけですよ。どうか、大神様は、お気遣いなさらないでください」
「君は、不思議な人だ…遊女とは、みんな君のようなのか…?」
「さあ…大神様のおっしゃる意味がよくわかりませんが、私の、この髪や眼の色を、珍しく思われる方は多いですよ」
「綺麗な色だ…なんだか、まるで天上びとのようだ…」
 枕に流れる前髪を指ですくい、うっとりと大神が囁いた。
「お上手ですね、大神様…」
 少し微笑んで見せたマリアの眼が、遠くを見るように視線を逸らせた。そのまま、じっと黙ったままだったマリアの唇が、やがて独り言のような呟きを漏らした。
「…私の父も、明るい金色の髪と、穏やかな深い碧の眼をしていました。私が9つの時に亡くなってしまいましたが…母は、私の眼をみて、いつも父にそっくりだと言ってくれました。それが、子供心に、とてもうれしかった…あのやさしい瞳に、少しでも自分が似ているのかと思うと…」
 そこまで言ってふと見やった大神は、いつの間にか静かな寝息をたてていた。
 子供のように邪気のない寝顔を見ながら、マリアは、ふっと口元をゆるめた。そして、なぜ大神にだけ、そんな話をしてしまったのかと、自らに問いかけた。



 大門まで見送るというマリアを、大神は制した。
「君は、少しでも体をいたわってくれ」
 そう言ってマリアを床に残し、一人で着替えを始めた。そんな大神の様子を、マリアは、まるで懐かしい光景でも見ているかのように、黙ってじっと見つめていた。
 白い制服のボタンをすべてとめ終え、部屋を出る段になって、床の上で居住まいを正して座っているマリアに、名残を惜しむように大神が振り向いた。
「また、来てもいいかな…?君の、傷が癒えた頃に…」

(いいえ。もう来ないでください。あなたのやさしさは、卑しいこの身にただ惨いだけです)

「ええ…。お待ちしておりますわ、大神様…」
 唯一口にするのを許されたその裏腹なことばが、同時に本心を含んでいることに自分で驚きを感じながら、マリアは大神を見送った。



 大神が帰った床に、眠ろうと一人で横になってみると、思いは再び、いよいよ今日水揚げされるレニの身に戻っていった。
 あの子はいつから知らされていたのだろう。衣装が上がってきてるなら、だいぶ前の話だろうに、自分には一言も言わなかった。そう思うと、一人で重い不安に耐えてきたレニが、マリアは哀れでならなかった。レニの白い華奢な手足と、ようやくふくらみはじめた固い胸が思い浮かんだ。まだ早すぎる。あの子には酷すぎる。上客が水揚げしてくれるのはレニのために喜ぶべきことだといくら言い聞かせても、疼くような胸の痛みは決して軽くはならなかった。
 せめて何か言葉をかけてやりたいと思ったが、レニは朝から準備のために引き離され、それもままならなかった。やきもきしているうちにいつしか夜になり、客の来る時間になってしまった。
 部屋を移動する合間に、マリアが一瞬だけ垣間見たレニは、瑠璃色の華やかな着物に、紅い帯で少女らしさを引き出すように飾りたてられ、人形のようにつめたく凍った顔で、女将の言い含める言葉を聞いていた。その様子を見て、マリアは、よしんば何か言ってやれたとしても、それが何になっただろうと思わずにはいられなかった。


 その夜、マリアが呼ばれた部屋は、レニの隣部屋だった。
 マリアは、襖の向こうが気になってならず、とても自分の客の相手に集中できなかった。
(いい子だ…。さあ、怖くないからこっちへおいで)
 男の声が漏れ聞こえてくると、マリアは自分が呼ばれたかのように身をすくませた。
 レニの、はっと息をのむ様子。その身に走る震えすら伝わってくるほど、薄い襖はあからさまに隣室の空気を伝えてきた。
 マリアはうなじの毛がちりちりと逆立つほど緊張し、自分の客への受け答えもうわの空だった。だが、隣室の様子を聞いているうちに、客は気が高ぶってきたようで、酌をするマリアの手をつかんで引きよせると、いきなり抱きついてきた。

 床の中で、男の貪婪な情欲に貪られながら、細い、押し殺したようなかすかな悲鳴が、マリアの鼓膜に突き刺さった。
 どんなにか耳を塞ぎたかったが、客の前ではかなわなかった。自分の身が、代われるものなら。そう思いながら、代わってやるまでもなく、隣で他の男に抱かれている自分が、みじめなまでに無力だった。
 マリアの真新しい背中の傷に気づいた客は、昨夜の大神とは打って変わり、その体を思うままにたわめて責め立て、マリアが苦痛に顔を歪める様を見て高まった。マリアは歯を食いしばりながら、いつ、レニが泣き叫び、激しい物音を立てながら部屋を飛び出してくるかと、祈るような思いで待ち受けていた。

 だが、何も起きなかった。
 隣室は、驚くほど静かで、時折、男の鼻にかかったあやす声が聞こえるだけで、レニの様子はさっぱりと知れなかった。



 泊まりの客が帰るのを送り出し、マリアはようやくレニの元へ行くことができた。
 出血のため今日一日の休みを与えられたというレニは、自分の部屋を持たない遊女たちの寝起きする寄り部屋で、隅の布団に目を見開いたまま横たわっていた。

 蒼ざめて無表情なレニの傍らにひざまずき、マリアは顔をのぞき込んで様子をうかがった。
「レニ……?」
 そっと、髪にふれたマリアの手を、レニが激しく振り払った。
 勢いに、マリアよりも、レニが自分で驚いたようだった。その眼が、さまようように逸らされた。
「…大丈夫…何でもない…。わかっていたことだから…」
 呟いたレニの、語尾がわずかに震え、華奢な白い手が、無意識に襟元を、ぎゅっ、とつかんでいた。
「…泣きたいなら、泣いていいのよ」
 なぐさめるようなマリアの言葉に、レニは瞳をこらし、唇を噛みしめた。
 だが、レニは泣かなかった。瞬きもせずに見開いた眼で、宙を見つめ続けるだけで、固く身をすくめ、じっとしていた。

 

 そんなレニの様子を見ながら、マリアは胸がふさがれる思いだった。この子が、泣くのも、笑うのも、めったに見たことがなかった。いつも固い、表情のない顔が、マリアの前でのみわずかに揺らぐだけ。
 レニの年季は、あとどのくらいあるのだろう。借金はいくら残っているのだろう。さらわれて売られてきたという話も小耳に挟んだ。
 これからこの子は、しばらくは水揚げ同然の身ということで、馴染み客の相手をさせられ、その後初見せといって、初めて店に出る遊女として、経験の少ない少女を好む客に買われて、そのあさましい欲望に、か細い身を饗されるのだ。
 そして、いつしか、自分のように、澱にまみれ、身も心もすり減らしていくのだろうか。何より、レニに耐えられるだろうか。水揚げの後、日を置かずして、自ら幼い命を絶ってしまった少女たちの姿が、マリアの胸に思い起こされた。こんなふうに、涙を見せるでなく、固く心を閉ざしているレニの様子に、マリアは不安をかき立てられてならなかった。


 翌日、マリアは、出入りの業者から、小さな赤い和金と、丸い金魚鉢を買った。
 生き物を飼うことは郭ではもちろん許されなかったが、部屋の装飾として、どうにか女将に許可をもらい、マリアは部屋にレニを呼んだ。
「…マリア…これ、何?こんな魚、見たことがない…」
「かわいいでしょう?金魚っていうのよ。この国では、観賞用の魚なの」
 初めて見る美しい小さな魚に、目をまるくして見入るレニに、餌の入った小箱を与え、マリアは話しかけた。
「あなたが、世話をしてくれる?水は、汲み置きのものを半分ずつ入れ替えるんですって。餌は、一度に食べきれる量を、少しずつ…」
 自分を頼りにする小さな命がある、ということは、レニにとって幾ばくかの支えになり、心を和ませるかもしれない。そう思っての、マリアのせめてものはからいだった。
 だが、果たして、自分のしていることは正しいのだろうか。マリアの脳裏に、拭いきれない疑念があった。この苦界に生きるのに、人間らしい感情など何も知らないほうがいいのではないだろうか。
 ふと、大神の顔が浮かぶ。夢も、やさしさも、知ってしまえば、それはただ哀しく、惨いまでにおのが身を苛むだけ。

 マリアは、答えを見つけられないまま、金魚が小さな鉢の中をひらひらと艶やかに泳ぐ様を、レニといっしょに黙って見つめていた。