櫻華楼
 一章  中原 陵成
 二章  斉藤 彩
 三章  山崎 あやめ

 看板写真 (肖像画)

 あやめの間(掲示板)

 おまけ

-提携店-

絶対運命無敵華激団
太正湯
当世懐古街
遊戯室
Belgard

 見世の前の灯籠に灯が入ると、いよいよ街は活気を帯始める。
そんな中、客引きする仲居たちをさりげなく断りながらその二人は歩いていた。
「さぁ、ここだ。早くこいよ、大神ぃ。」
白い海軍軍服姿の大神は親友である加山に連れられて「櫻華楼」へとやってきた。
「加山、やっぱり俺は遠慮するよ。どうもこういうところは…」
「おいおい、大神。ここまで来てそれはないだろ? とりあえず中に入ろう、こんなとこで立ってたら営業妨害だぞ。さあさあさあさあ。」
そういうと加山は見世の前でためらっている大神の手をとると強引に中へ引き込んでしまった。
「おや、加山の若旦那。いっしゃいまし。」
応対に出たのは仲居頭の土蜘蛛だった。
「やぁ。座敷を1つ用意してくれるか?」
「ですが、今日はかえで姐さんはいらっしゃってませんが…」
「ああ、かえでには俺から直接連絡をいれてある、ほどなく来るだろう。」
「あら、そうでしたか。じゃ、すぐに用意させていただきますんで、少々お待ちを。」
「それと一人花魁を…そうだなぁ…」
「じゃあ、水孤でも。」
土蜘蛛は『お職』つまり見世で一番人気の花魁の名前を出した。加山のようなはぶりのいい客に少しでも多くの金を落とさせるのも交渉役である仲居頭の土蜘蛛の仕事ともいえた。
「いや、お職の水孤じゃあ、こいつの方が縮んでしまうだろう。そうだなぁ…」
「橘乃なんていかがですか?旦那。」
振り返るとそこには黒い羽織を着込んで三味線を抱えたかえでが立っていた。
「ああ、そうだな。橘乃ならこいつにぴったりかもしれないな。」
「橘乃ですと少々お時間をいただかないと…」
「かまわない。」
「お、おい。加山。」
「今日は俺のおごりだ。お前の昇進祝いだからな。橘乃が気に入ったら泊まりにすればいい。それだけのものはおいていくから。」
加山は大神に囁いた。
「とにかく、身体が空いたら橘乃を座敷の方に頼む。」
加山は懐から祝儀袋を取り出すと土蜘蛛の手にそっと握らせた。
「はい。おまかせくださいませ。若旦那。さ、どうぞ。レニ、お座敷にご案内して。」
そこまで言うとそっと耳打ちにかえると、
「マリアのお客が帰ったら、座敷に行くように伝えな。」
「はい。」
「花魁が座敷に行ったら本部屋の準備をしとくの忘れるんじゃないよ。」
本部屋とは花魁達が暮らしている部屋のことで、人気のある花魁程、いい部屋に入れるのだが、マリアはこの店で2番目にいい部屋を使っていた。客が重なった場合は「廻し」と言う共有の他の部屋を使う場合もあるが、基本的には花魁は本部屋で客の相手をする事になる。
「はい。」
レニは無表情のまま頷いた。そして、加山達を振り返る。
「ご案内いたします。どうぞ。」
レニを先頭にして3人は奥へと消えて行った。
「まったく…あんな辛気くさい子のどこがいいんだろうねぇ…花小路老もお気に入りだし…金はあるけど派手な客はつきゃしない……たまに水孤の客みたいにパーッと派手な座敷でも組んでくれる客がきてくれりゃあ、いいのにさ。」
土蜘蛛は一人毒づいたがすぐにやってきた新しい客のために営業用の笑顔を作った。


 加山達一行を座敷に案内すると、レニはそのままマリアの部屋へと向かった。客が帰ったようで、マリアは着物を直し、浴室へと行くところだった。
「あ…マリア……いや、橘乃姐さん…。」
普段のクセで名前を呼んでしまい、慌てて言い換えるレニにマリアは微笑んで答えた。まだ年端のいかないレニをマリアはまるで妹のようにかわいがっていた。レニも他の花魁とは違う不思議な清楚さを持つマリアになついていたのである。
「いいのよ。お客はもう帰ったから。どうしたの?レニ。」
そういって頭を優しく撫でられるとレニは恥ずかしそうにうつむいた。
「はい、あの…奥の座敷に加山の若旦那がお客人といらしてて、そこにマリアに行くようにって。」
「……そう。」
マリアは小さなため息をついた。一晩に一人の客を相手にしてるぐらいではいつまでたっても借金はなくならない。頭ではわかっていても、一晩に何人もの男に身体を任すことにマリアはいつまでたっても慣れることはなかった。
「わかったわ。汗を流したらすぐに行くと伝えておいてちょうだい。」
自分の頭から離れた手に違和感を感じでレニは思わずそれをつかんだ。
「マリア…熱が……」
「レニ。大丈夫よ。」
「でも……」
「レニ。」
マリアの声は静かだがどこか決意を帯びていて、レニは手を引っ込めるしかなかった。
「大丈夫…さっき、菊乃丞先生からお薬もいただいたし…辛くなったらそれを飲むから。」
そう言うとマリアは浴室へと消えて行った。
そんなマリアをレニはだまって見送ることしかできなかった。レニはまだ歳が足りず、娼妓として登録できないのでこのように下働きをしているだけで、次の誕生日がくればマリアと同じ立場になるのだから。
 レニは思いを振り切るように大きく頭を何度も横に振ると、身を翻し部屋を整えるためにマリアの本部屋へと向かった。



 かえでの奏でる三味線が静かに流れる座敷では加山と大神が酒を酌み交わしていた。
「しかし、大神ぃ。お前が中尉とはなぁ…。同期の出世頭だ。」
上機嫌で飲む加山の横で大神は正座を崩すこともなく杯を空けていた。
「そんなたいそうな話じゃないよ。ちょっと運がよかっただけのことだから…」
「運も実力のうちだぞ、なぁ、かえで。」
「若旦那、大神さんが困ってらっしゃいますよ。」
かえでがくすくすと笑いながら諫める。
「花魁さんがいらっしゃいました。」
声がしたと思うと襖がスッと開いてマリアが現れた。
「おそくなりました。」
「おお、待ってたぞ、さあ、こっちへ。」
小さく会釈してマリアは大神と加山の前に座った。
「橘乃でございます。」
大神は思わず杯を落としそうになった。金糸のような髪、雪のように白い肌、深い湖のように吸い込まれてしまいそうな碧の瞳。目の前のマリアは今まで出会った誰よりも美しかった。
「若旦那、お一つどうぞ。」
「橘乃、今日はこの大神の中尉昇進祝いなんだ。相手をしてやってくれ。」
「まあそうでしたか…まだお若いのにすごいですね。さぁ、大神様おひとつどうぞ。」
マリアは手慣れた様子で大神にも酒を勧める。
「いや…どうも……。加山、お前が騒ぎすぎるんだぞ。それほどのことじゃないのに…」
「いやぁ…俺はなぁ大神ぃ、うれしいんだぁ。」
「少々お酒が過ぎたようですね。」
かえでがふいに三味線を引く手を止めた。そして顔を上げた加山を見つめ、
「若旦那。」
そうただ一言いって微笑む。
「ああ、そうだな、かえで。」
加山が立ち上がると、かえではそっと上着を着せかける。向かい合い片方に持った上着をもう片方の手を相手の背に回して着せかけるその芸者特有の着せ方はまるで抱擁しているようで、大神は思わず顔を真っ赤にして俯いた。
「じゃあ、俺は帰るが、橘乃。大神をよろしくたのんだぞ。」
「かしこまりました。若旦那。」
「お、おい、加山。」
思わず立ち上がろうとする大神を片手で制すると加山は、
「古人曰く、『今日の後に今日なし』。ゆっくりしていけよ、大神ぃ。」
そういうと加山はかえでと共に座敷を出て言った。
それと入れ替わるようにレニが座敷の外に座ると、
「花魁。お部屋のご用意ができました。」
そう抑揚のない声で告げた。
「ご苦労様。じゃあ、大神様。それでは私達も部屋に参りましょうか。」
「部屋…部屋って?」
「私の部屋です。ここは二人では広すぎますから。」
「そ、そうだな……しかし…その……」
「とりあえず、部屋の方にお酒の用意もさせますので……その後のことはそれからでかまいませんので…」
そう言われては大神も行くしかなかった。
結局、レニの案内でマリアの本部屋に通されることになった。
「大神様、着替えを…」
マリアが寝間着を着せかけようとするのを大神は静かに断った。
「いや、とりあえずこのままで。」
そう言うと大神はレニが持ってきた酒をまた飲み始めてしまった。
マリアはそのまま大神の横に座り酌をしようとしたが、それすら大神は断り手酌で飲んでいる。
「あの…大神様……私はお気に召しませんか?」
「いや、そういうわけではないんだ。…ただ、こういうところは初めてで…。その…」
「廓はお嫌いですか?」
「嫌いとか…そういうことではなくて…ただ、俺はこういうところにはどうも…」
「そうですか…」
マリアの浮かべた淋しげな微笑みに大神はドキリとした。
「とりあえず…せっかく私がここにいるのですから…お酌ぐらいさせていただけませんか?」
そう言ってマリアは徳利を持つ大神の手に自分のそれを重ねた。と、その時大神はマリアの手の異常な熱さに気付いて、ハッと振り返った。思わずマリアは延ばしたその手を引っ込めた。
「君、熱が…」
「いえ、そんな…着物が…その暑いだけです…あ、お銚子のおかわりを頼みますね。」
マリアは慌てて立ち上がった。そのつもりだったが、急に動いたため激しいめまいに襲われその場にゆるゆると崩れ落ちてしまった。
「おい、大丈夫か?橘乃さん。」
「…す…すいません……大丈夫ですから…どうか、騒がれませんように…」
大神は黙っててマリアの額に手をやった。
「すごい熱だ…こんな身体で座敷に出るなんて…無茶だ…今、薬をもらってきてやる。」
「あ、待って、待ってください……お客様にそんなことをさせたら、私が後から叱られます…薬なら…薬ならありますから…」
マリアは自分で懐に手を入れようとするとが、なかなかうまくいかない。見かねて大神はそっとその懐に手を入れる。小さな薬包を取り出した。
「これかい?」
マリアは小さく頷いた。
「ちょっと待ってて、水をもらってこよう。」
素早く立ち上がり襖を開けると、そこにはマリアを心配して様子をうかがっていたレニが立っていた。
「ああ、君、済まないが水を持って来てくれるかい?こっそりとね。」
「あ、はい。」
室内を覗き状況を察したレニはほどなく水を持ってやってきた。レニが戻ってきたときには大神はすでに着物の帯を解き、マリアを布団に横たわらせていた。
「ありがとう。さあ、水をもってきてもらったよ。飲めるかい?」
力無く頷くマリアの身体を抱き起こし、薬を飲ませようとするが、うまく水を飲むことができない。
大神はちょっと考えたがおもむろに自ら水と薬をを口に含むとそのまま口移しでマリアに与えた。
 ふいに口唇を押し当てられてマリアの身体が一瞬ビクッと硬直する。喉がコクッと薬をすべて飲み込んだのを見届けるとそっと唇を離した。そんな二人の姿をレニはただ驚きの表情で見つめるだけだった。
「済まないが、下に行って今日、俺は泊まりにすると言ってきてくれるか?」
「はい。」
我に返ったようにレニは一礼すると階下へと下りて行った。
大神は再びマリアを横たわらせるとそっと掛け布団をかけてやった。
「す…すいません…大神…さま………ご迷惑…を…おか…けして…」
「体調の悪い時は誰にだってあるさ。今夜は泊まりにしてもらったから一晩ゆっくり休むんだよ。」
「…あり…がとう……ございま……す……」
薬が効いてきたのかマリアは眠りに堕ちていった。
レニが戻って来ると大神はマリアの寝顔を見ながら杯を傾けていた。
「大神様、帳場の方には言ってまいりました。朝までごゆっくりどうぞ。お酒の方のおかわりをお持ちしましょうか。」
「いや、それより時々橘乃の様子を気にしてやってくれ、俺は帰るから。」
「え?」
杯を置いて立ち上がった大神に思わずレニは土下座をした。
「大神様、お願いでございます。せめて夜の明けるまで、ご逗留ください。」
「おいおい、どうしたんだ、顔をあげて。どういうことだい?」
大神はレニの傍らに膝をついてそっと訊ねた。
「大神様は泊まりということで見世に報告してまいりました。それなのに泊まられずに帰られたということを見世に知られると、橘乃姐さんが粗相をしたということに…」
顔を上げぬまま言うレニに大神は小さくため息をつき、ドンと腰を下ろした。
「そうか…廓の決まりというのは難しいんだな…橘乃もあんなに熱があるのに客をとらなければならなかったんだしな…」
「はい…ですから…どうか…」
「わかったよ。じゃあすまないけど、お酒をもう一本。その後で布団をもう一組用意してくれるかい?だからもう、顔をあげてくれよ。」
レニの肩に優しく手を置いて大神が言う。その言葉にようやく顔を上げるとレニはホッとしたように笑顔を見せた。
「はい。かしこまりました。只今用意をさせていただきます。」
レニはもう一度深々と頭を下げると部屋を出ていった。
残された大神はそっとマリアの様子をうかがった。薬が効いてきたのか呼吸もかなり穏やかになってきている。
「…あの子もあんなに心配してるんだから、あんまり無理をするなよ、橘乃。」
大神はマリアの寝顔に呟いた。



 次の日の朝、夜明けを待って大神はそっと「櫻華楼」を後にした。布団は用意してもらったものの、結局あまり寝る気にはなれず、朝まで飲んでいたので、とりあえずは宿舎で朝風呂でも浴びてから今日の勤務に当たることにしていた。
 宿舎の前には加山がニヤニヤしながら立っていた。
「よおぅ、大神ぃ〜。どうだ?はじめての朝帰りの気分は。」
「お前だって朝帰りだろ?」
「橘乃はどうだった?いい花魁だったろ?」
「ああ、美人だな。本当に。」
「それでどうだったんだよ、首尾は。」
「なにが?」
「何がって…そんなこと決まってるだろう、可愛がってもらったんだろ?」
「…いや。」

「いやってお前…朝帰りしてきたのにか?まさか、お前朝まで酒を飲んでいたとか…」
「ああ。」
「ああってお前……」
「何かまずいことでもあるのか?」
「おまえなぁ…花魁を抱かないでそのまま泊まるってのは、とんでもなく失礼なことなんだぞ、おい、わかってるのか?」
「え?」
「今はそんなことをやったりしないが昔は客が気をやったかどうか遣り手が調べたってぐらいのとこだ。その花魁を抱かないで帰ってきただと?」
「そんな…」
(抱けるような状態じゃなかった…。)
大神はその言葉を胸の中に納めた。これはレニと大神だけの秘密ということになっているのだから。
(しかし、俺は初めから彼女、橘乃を抱くつもりはなかった…とりあえず座敷に行って酒を飲んで適当に帰るつもりだった。)
ふと、大神の脳裏に昨夜、倒れる前のマリアが思い出された。
『私はお気に召しませんか?』そう言ってマリアは淋しげに俯いていた。自分は彼女を傷つけていたのではないか…そう思うと大神は愕然とした。
「俺、ちょっと出かけてくる。」
「出かけてって…おい、大神ぃ。」
「勤務時間までには戻るから。」
それだけ言うと大神は駆けだしていた。


 朝の花街は夜とはまったく違う顔で大神を迎えた。泊まりの客達が帰るのでそれなりに人通りはあるのだか、どこかひっそりと静まってみえる。大神は真っ直ぐ『櫻華楼』へと向かった。
 見世の前ではちょうどレニが掃除をしているところだった。
「あ…大神様。なにか?」
「ああ、すまない。橘乃にどうしても言っておきたいことがあるんだけど、通してもらえないかな。」
「あ、はい。どうぞ。」
帳場では女将のあやめが土蜘蛛とそろばんを弾きながら何かしら話をしているところだった。
「おや、大神様、どうかなさいました?」
「あの……」
あやめの言葉に大神が答えに窮していると、
「大神様は花魁の部屋に何か大切なモノをお忘れになったということで…ご案内してもよろしいですか?」
レニが横から助け船をだしてくれる。
「おや、そうでしたか。そういうことでしたら、どうぞ、おあがりください。」
「ありがとう。」
それだけいうと大神はレニの案内でマリアの部屋に向かった。
 マリアはすでに化粧を落とし寝間着に着替えて布団に入っていた。大神の姿を見ると驚いたようだが、ゆるゆると起きあがり頭を下げた。
「大神様…昨夜は大変お世話になりました。」
「よかった。熱は下がったようだね。」
大神は枕元に座った。
「一言、君に謝りたくて戻ってきたんだ。」
大神の言葉にマリアはもちろんレニも驚きの色を隠せなかった。
「昨日、俺は加山に無理矢理連れてこられてそのまま君を買った。なのに端から君を抱くつもりはなかった。」
「大神様…」
「でもそれは君に対してとても失礼なことだったと、反省している。許して欲しい。」
そう言うと大神は頭を下げた。
「大神様…そんな…謝らなければいけないのは私の方です。せっかく買っていただいたのにちゃんとお相手できずにご迷惑を…」
「いや…君の体調が良かったとしても俺はたぶん抱かなかっただろう。それが申し訳なくて…」
「では、大神様…今度入らしたときには私のこの身体…抱いていただけますか。」
「え?」
「遊郭とはそういうところですから。」
「そうか…そうだね…それで君への非礼のお詫びが出来るなら。」
「その言葉だけで、うれしいです。ありがとうございます。大神様。」
大神がそう答えると、マリアは居住まいを正し、深々と頭をさげた。


 その日の昼休み、大神は加山に中庭に連れ出された。
「大神…橘乃との間に昨日何があったかは聞かない。」
「加山…」
「あの見世は俺の顔が利く。お前はもう一見じゃないし、とにかく橘乃をちゃんと抱いてやれ。それが、花魁に対する礼儀だ。花代は俺のツケでかまわないから。いいな。」
「加山…ありがとう……」
「古人曰く『人生、意気に感ず』お前の気持ちはちゃんと彼女に通じるはずだ。」
加山はそう言って大神の背中をポンと叩いた。