櫻華楼
 一章  中原 陵成
 二章  斉藤 彩
 三章  山崎 あやめ

 看板写真 (肖像画)

 あやめの間(掲示板)

 おまけ

-提携店-

絶対運命無敵華激団
太正湯
当世懐古街
遊戯室
Belgard

 窓で切り抜かれた風景は、いつもとなにも変わりはなく、新しいもの古めかしいものが当然かのようにそこに存在していた。
 もっともその窓から風景を眺めているマリアにとっては、その光景が新しいかという判断は出来るはずもない。幼いときに両親を亡くし、流れ着いた先がこの花街の郭の中で、それ以来視界の先にある門の先の世界を見たことがなかったから。
 その判断をするのは、外界から訪れる人たちが少しずつ教えてくれる情報。それが彼女が判断をする全てだった。

 空を見上げているマリアが口ずさみ始めたのも、やはりそんな情報の一つだった。以前珍しくこの街を訪れた彼女の父親と同じ土地から来た人が、戯れに教えてくれた恋の唄。
 待つことしかできない今の自分に当てはめているのか、その旋律は彼女の押さえ目な声で、一層聞くものを切なくさせるようなものに聞こえる。

一つ目の雪が舞い いくさの季節も終わりを告げる
愛しいあなたが私のもとへ かえってきます
毎日毎日帰りを待ちわびながら
帰ってきたら 何を話そうか何を見せようか
そんなことを思う間に また花がほころびました

二つ目の雪が舞い散る季節も 三つ目の雪が舞い落ちても
愛しいあなたは帰ってこない
欲しいものはなにもないのに あなただけが必要なのに…

「随分と悲しい唄じゃないですか?マリアさん」
 いつまでも響くと思ったその唄は、不意に呼びかけられ途中でとぎれた。
 マリアは反射的に声がした方を振り返り、おそるおそる相手を確認する。無意識に口ずさんでしまったそれは、縁起を重くおくこの街では忌み嫌われるものであったから、見世の者に聞かれたらどういう目に遭うか解らないという怯えが無意識に出てしまう。
 しかし目の前にいるのは、その危惧が必要がない人物だった。我に返って今のことは内密にして貰うように、目の前の相手に手を合わせると、相手の方もくすくすと笑いながら頷いてくれる。
「とはいえ、マリアさんの声って響きますからね…そうだ、私が頼んだことにしておきましょう。そうすれば仲居さん達に怒られずにすみますから」
「…すいません、菊之丞さん。私みたいなものに気を使ってくださって…」
 にこやかにマリアの側によっていったのは、ここに出入りの薬屋で丘 菊之丞。
 まだ幼さを顔に残す彼は、医者の清流院 琴音といつも一緒にいて、何かというとここ櫻華楼に入り浸っている。
 とはいえ清流院とは、定期的な検診位しか医者として顔を合わすことはない。彼にかかるということは、ここを出ていくときくらいだろう。
 大抵の病気なら、清流院にかかると得意先にも知られてしまい、店としても売り上げが減少してしまうと言う死活問題になるので、大抵は店の中で処理してしまうか、もぐりの医者の木喰が扱うことになっている。
「いえ、いいんですよ」
 ところでと言う感じで菊之丞が目を細めて、マリアの方に手を伸ばしてくる。いつもなら彼が来ただけで彼に座席をすすめ、何かと気を使うマリアが今日に限って彼が訪れたときの姿勢、窓枠の方に身体を預けたままで動こうとしないのだ。
 触れた手から気怠そうに逃れようとしたマリアを、押さえて脈をとってみる。わずかだが早いことを確認してため息をつく。
「マリアさん、それはただの疲れですか?」
 いつも穏やかな瞳の翡翠の色は、心なしか潤んでいるし、本来ならこうして話していることすら辛いはずなのに、それを見せないのは…それよりも、先ほどマリアが口ずさんでいたのは、熱のせいだろうか?

 見据える視線から視線を逸らしたのは、マリアの方が先だった。ばつが悪いような表情をしながら、ふらつきそうな身体を押さえるために自分を抱きしめる手に力を込める。
「そうだと…思います」
 嘘をついても専門家を騙すことは出来ない。マリアはそう観念して菊之丞の顔を見る。この数日酷く体がだるくて、それでも眠ることが出来ないのが原因だと解っていた。
「そんな状態で客なんかとってたら…」
 取り返しの付かないことになると言う言葉を、菊之丞はかろうじて飲み込んだ。そのかわり自分の膝の上にマリアの頭をのせて、瞼の上に手を当てる。マリアはとまどいを見せて拒もうとしていたが、菊之丞の強引とも思える動作に諦めたのか、おとなしくそれに従って瞼を閉じる。
 医療の末席にいる者として、このようなことは許されないだろうが、このまま今日は休ませてみても、その分この街にいなくてはならない日が延びる。その方がマリアにとってどれだけ残酷になるか、外から見ている菊之丞ですら解る。
「どうしてしまったんでしょうね、櫻華楼は」
 菊之丞のその言葉に、マリアの身体が小さく震えた。
 以前の櫻華楼は遊郭とはいえ、女将のあやめが娼妓を大事にし、マリア達にとっても暮らしやすいような場所だったのだが、数ヶ月前に山崎というものと祝言をあげてから、少しずつ女将の様子が変わってきた。それは見世自体が変わるということで、仲居頭を筆頭に山崎がどこからか連れてきた者に変わり、以前の櫻華楼とは建物が同じなだけで異質な場所になりつつあった。

「姐さん、そろそろ時間です」
 閉ざされた襖の向こうから、少し低めの少女の声がした。
「そう…ありがとうレニ」
 そうマリアが声をかけると、足音はしないが気配が段々遠ざかっていく。
「やはり今日は休むわけにはいきませんか」
 ゆっくりと起きあがろうとするマリアにかけられた菊之丞の言葉に、マリアは小さく頷いた。それを見て懐に手を伸ばして、何かを取ろうとした菊之丞の手を静止させる。
「私が買うといっても…駄目ですね」
 菊之丞が紙幣を取り出そうとしたのを静止したのだ。一晩分の代金だろう。マリアにとって嬉しいことであったが、その好意は受け取れなかった。
「それはお気持ちだけ受け取っておきます。ありがとうございます」
 少し離れて手をついて頭を下げた。そんな律儀なマリアの様子に菊之丞はため息をついて、脇に置いてある薬箱から包みを取り出してマリアに握らせる。
「いいですか?お茶を挽いても挽かなくても、早めに飲んでくださいね。それで今日は絶対に勧められても、お酒は飲まないでください。大丈夫。これは珍しい唄を聞かせていただいたお礼と言うことで」
 マリアが辞退する前に一気に全部話してしまう。案の定マリアの方は、断る機会を逃してしまって小さく頷くしかない。

「今日は身揚がりでもするのかい?ぐずぐずしてないで降りておいで!」
 階下から仲居頭の不機嫌な声がする。身揚がりとは自分で自分を買うことを意味する。ふらつきそうな身体を何とか柱に預けてマリアが立ち上がろうとするのを、先に立ち上がった菊之丞が助けて、先に廊下に出る。
「仲居さんすみませんね。マリアさんの話が面白くてつい引き留めてしまいました」
 下に向けて菊之丞のかけた言い訳に、それ以上下からは声はかかってこない。それを確認してマリアの方に振り向くと、手を差し出す。
「それでは、橘乃さん。参りましょうか?」
 その名前を呼ばれてマリアは表情を堅くする。本名だと近寄りにくいと言うことで、つけられたもう一つの名前。
 下に降りることでその名前の女になる。マリアという全てのものを捨てるかのように、一度頭を振って深く息を吸い込み、伸ばされた菊之丞の手を取って下へ降りる階段へ歩を進めた。